教員紹介


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20190610ゼミ紹介A3

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大阪大学大学院人間科学研究科
教授 檜垣立哉 紹介

これまでやってきたこと

職業的な論文・翻訳としては、メルロ=ポンティ、ベルクソン、九鬼周造、フロイト(ラカン)、レヴィナス、ドゥルーズなどをあつかってきました。修士論文としてはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』の堅いまとめをやっています。だから、自分は何かと問われれば、職業的には、現代フランス哲学、そのなかでも<生の哲学>と<現象学>に関するある種の学者と答える以外ないとおもいます。しかも、志向としては、<私>の存在、身体の感覚性、時間、偶然性に関する議論を軸に、無意識や身体性や生成のロジックを探るという、形而上学的としかいいようのない試みに多くの時間を費やしてきました(それにこれからも延々と費やしていくのでしょう)。要するに、有用な学問分野のみを残していくという独立法人化以降の大学のあり方からすれば、ほとんどぎりぎりに不必要であるような業種選択をなしているわけです。とはいえ、私自身は、自分をあまりフランス哲学の学者であるとは捉えていませんし、また自分のフランス語運用能力や哲学史の知識量を考えても、正面きってそう主張することは面歯がゆい限りかぎりです。とりわけ日本のフランスの(そのときどきの<現代>の)思想受容には、(哲学系にとって)賛否両論はあれ、仏文系・フランス語学系の学者によるすばらしく深みのある歴史があるわけで、私はそこにはほとんどテクニカルな意味では寄与できないという意味も(自己反省も)あります(私は30すぎてはじめてフランスの土地を踏みました。自分が決してフランス思想かぶれだと想われたくないという自負心はありましたが、その時点でフランス学者としてはすでに失格のような気もします)。が、もちろんそれだけではなく、ちょっとポジティヴに考えていることもあります。

これはちょっと気恥ずかしいのですが、私が哲学・思想などというものに片足をつっこんだのは、高校生の時に吉本隆明『共同幻想論』の<角川文庫版>が出版されて、たまたまそれを読んでしまった、という出来事が発端にあります(すでに時は大学<闘争>後の空虚さすら乗り越えた80年代でした)。吉本をどう捉えるかには、愛憎入り乱れる複雑な感情はありますが、端的にいえば、社会や共同体について、日本語によっていわば素手のような状態で、原理的に考えるという実験をしていること、それを実際にやっていることにびっくりした、という感覚はとても衝撃的なものでした。もっとも抽象的に見えかねないテーマに関して原理的に考え抜くという作業が、実際には一番リアリティーのある言葉の領域に届きうるのだ、ということに驚きました。そして、そんな不可能にも想える作業が実際に流通可能な言葉であるということが、ショックでした。以降、私は多分自分が死ぬ直前にならない限り吉本については何も書かないとおもいますが(そういいつつ、機会があればあっさり書くかもしれませんが)、吉本を読んで得たこの感覚の線上でしかもはや何もできないな、とはおもいます。よく吉本は、これまでの日本の学問などは、薄っぺらな外国思想密輸入業にすぎず、自前で考えなければならないと檄をとばしてきたのですが、いくつかの留保はあれど、それはひどくまっとうな感覚で、そこで要求されている<独力でやる>ことのつよさは、何かを考える以上絶対に不可欠なのではないかと想います。それに広くいえば(別に吉本的というのではなく)、横のものを縦に移して何かをいったことにするのではなく、こうした思想の独力性をまじめに捉えていく世の中にぼちぼちなってきているとおもいます。また実感として、こういうように自分で考えた言葉でなければ、大学生は誰も聴きません。その点、変ないい方ですが、私は世の中も大学も捨てたものではないと想っています。本当に底力のある何かが生まれるのは、いろいろな意味で廃墟のあとなのかもしれません。

ではなぜフランス思想なのか、フランス思想など、一部のオタクのジャルゴン的思想の最たるものじゃないのか、こういわれそうです。もちろんそれにはさまざまな個人的来歴はあるのですが、そんなことはいっさい省くと、やっぱりここ百年くらいのフランスの哲学というのは、軽薄だとか流行にすぎないとかいわれながらも、思考のかたちとしては大したものではないのかと想うのです。たとえば私が、<私>ということのリアリティー、<生きている>ことのリアリティーを何とか語ろうとしたときに、フランス思想は、時間・身体・経験・制度からはじめて、ことば(記号)・こころ(精神)・いのち(生命)に結びついていくさまざまな位相の襞や連関を丹念に明らかにしていくという傾向が強いとおもうのです。それはよくフランス思想の弱点だともいわれますが、これらの主題が切りはなされることなく結び突いているありかた、たとえばメルロ=ポンティの<両義性>でもいいですしベルクソンの<直観>でもいいですが、それは、さまざまなものが錯綜したことがらの原理をそのままに提示する強力な手段であるとおもうのです。明確なシステムをなしているとみえながらも、システムそのものが自身を裏切るような虚点をはらみ、そこでシステムそのものが流動する・・・それで、われわれにできることは、この錯綜を錯綜のままエクリチュール化せずに(それだと中途半端に流れに身をゆだねるエッセイの思想にすぎないですから)、彼らが何をいっているのか、その錯綜した原理性をできるだけモデル化してとりだすことだとおもうのです。この意味で、フランス系の思想は、それこそ輸入されること多いながら、とても咀嚼されているとは想えません。来歴をはずしてまで、概念として使えるものになっていないとおもうのです。私は、学者としての自分がやってきたことを考えると、とにかく、とりあえず何かに届いているフランス系の思想に依拠しながらも、それをリアルを語る手段にもちきたらすためにはどうしたらよいのかな、<私>や<リアル>の構造をうまく言い表すにはどうしたらよいのかな、これを巡っていると感じるのです。いい方をかえれば、たとえば私のあり方だとか、リアリティーだとかを語るときに、私の特異な・一回限りのこの生、私にしかえられなかっためくるめき体験・他者(たいていは神)との事件のような(実は選民的な)出会い、他者に毀損されないかまたは焼き付けるように毀損されるがままの内面性、これらを不意に、不用意にいってしまう傾向は結構根強くあると想うのです。

ところが20世紀のモダニスムは、この内面への捉えられから、どのように外にでるか、それをどうして対象化するのか、要するに酔いながら醒めるのか、これを描くことに本質があるように見えるのです。フランス思想は、実に他面的な結びつきで(科学・精神分析・言語・政治・制度)、この<内面>の<特異さ>の感覚を大事にしながらも、そこに拘泥して不毛な自己反復言語にとどまるのではなく、何かをやろうという実験に見えるのです。特異性・個別性を廃棄して普遍性・一般性に、というのではありません。特異なものがあって、あるいは<いま・ここ>でしかないことがあって、そのリアルさの切っ先のようなものが確かにあるのですが、それを<内>にも<無底>にも<曖昧さ>にもからめ取られるのではなく、<普遍>との包摂関係でどうにかいえないか、というのがともあれ重要なことです。無数に増殖していく蟻の大群のようなものがあって、それを押し流していく風のつよさ、季節の転換、環境の変化、大時代的な変動があって、一匹一匹の蟻は、それにはかなくものみこまれてしまう存在の一項にすぎないのだけれど、おそらくは蟻という<私>である動いている視点のみをとるのではなく、一面では風や季節の中に全面解体されながらしかも生きているその状態を描ききることが必要だとおもうのですなんか抽象的にしかいえないですが、私はいつもこうした問題関心をもって著作・論文を書いてきました。成果は貧しいながら、とりあえず自分なりのかたちにもっていけそうな感触は最近やって見えてきました。それともう一つ、私は27歳の時からもう足かけ10年大学で給料をもらっています(東京では、さまざまな掛け持ち非常勤もやりました)。最初は大学という場所が訳が分からずいやでいやでたまりませんでした。何しろ人前にたって、偉そうに講釈をたれるという形式は、何ともナンセンスでバカらしく、自分のはなしなど聴いてくれるわけがない、とおもっていたのです。しかし(何せ哲学ですからはじめから少数に決まっていますが)ぼつぼつと、私のはなしを聴いてくれて一緒に本を読もうという若い人たちが、結構いろんなところにいる、ということがそれこそリアルに感じられてきました。これはちょっとびっくりでした。大学に勤めているという経験は、確実に私の方を薄っぺらな<内面>から引きだしてくれ、<他者>のエネルギーにさらしてくれています。いまも私は制度的な教育というものにはいろいろ違和感はあるのですが、<教える−教わる>関係という<ひと>の生のひとつの原型のような実験をやり続ける場面で生きていられるというのは、感謝せざるをえないと感じています。まじめな話し、ある程度年齢を重ねたら、自宅で小・中学生に足し算引き算から相対性理論やカオス理論まで、漢字の書きとりから源氏物語や仏独語までを教えきってしまう変な私塾でもつくって余生を送りたいなとおもっています(感のいい方、ここでも吉本的な影響力の強さを感じられるでしょう)。しかしそれは本当に先のこれからの話しですから、もうやめましょう。(2001年)

◇著作一覧
西田幾多郎の生命哲学
生と権力の哲学
生命と現実―木村敏との対話
ドゥルーズ/ガタリの現在
賭博/偶然の哲学
ドゥルーズ入門

文春オンライン 特集インタビュー『「哲学」の時代』


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