共生の人間学とは?

共生の人間学講座について

檜垣立哉 教授

2016年4月より、学部・大学院の改組の結果、檜垣の所属は共生学系・未来共生学講座共生の人間学研究室に移りました。とはいえ檜垣は、基本はフランス現代哲学・日本哲学・生命論・賭博論等などを専門とする哲学者で、大学院・学部における研究の内容やあるいは指導のあり方が根本的にかわるわけではありません(またそれは不可能です)。ただ、受けもつ講座に共生という文言がついたということもあり、この点について、おもうことをのべます。
共生というのは手垢がついた言葉です。共生社会だとか共生が大事だとかいろいろいわれます。檜垣は哲学者であり、哲学者はその本性として「すべてのことを根源から疑い、疑義に晒す」のが商売ですので、安直な共生社会論者、共生社会万歳論者には直情的な反発をもっています(と素直に表明しておきます)。共生をおこなうには、絶対的な他者、決定的なディスコミュニケーション、否定の力の強さ、これを知らないと端的に無理だとおもいます。古今の「共生」を文言に掲げられる方々の多くに、檜垣は率直に「甘いのではないか」という感想をもっていることは、最初にもうしあげておきます。

しかし、だからといって、講壇哲学者然として、ただシニカルに現場や事象を批判してことたれりという姿勢がよろしいとおもっているわけでもありません。批判すべきところがあれば批判し、しかし建設的に貢献できることがあれば貢献し、そしてカント的なKritikの原義ですが、われわれがなしうることの「限界」を指摘する(それは後ろ向きの作業ではありません)という仕事は、このポジションについている限り、「責務」だとおもっております。それらを考えることについては、私はまったく否定的ではありません。やりたいとおもいます。

ただもちろんのことながら、檜垣には共生学系の多くの先生方がもっているような現場=フィールドはありません。敢えていえば(けっして冗談ではなく)、賭博論や日本や世界の競馬は哲学者たる自分のテーマですので、「競馬場とウインズ」は唯一公言できる私のフィールドです。こういうことがやりたいというひとはいくらでも競馬場に、ウインズに、場合によってはパリのロンシャンにでも、ロンドンのアスコットにでも、ケンタッキーのチャーチルダウンズにでも、メルボルンのフレミントンにでもいきましょう。しかしこれは例外的なケースありで、やはり私は「どこそこ」のフィールド研究をしているとはいえません。檜垣はやはり「本の中の住人」でありその限りにおいて「世間知らず」です。それが分からないほどの馬鹿ではありませんのでご安心ください。そしてその背景を考えると、自分は他の先生と同様の共生に関する取り組みをやっても、余り意味がないだろう、もちろん現場にでて、世間の実践で活躍したい方はそういう方面にいってくださいとおもいます。要は檜垣には現場性や実践性はあまり期待できません。

ただし、哲学的人間学があつかう領域としての、人間が産まれ、共に生き、死んで行く全過程、これを考察対象にすることはできます。また一般的な意味での暴力論、ポストコロニアル、グローバル化と社会、未来社会の構築、資本主義論については現代哲学者として当然の関心はあります。檜垣はこれらのプロではありえないかもしれませんが、哲学の主題としてあつかうことはできます。そしてその延長で共生ということに連関させるならば、檜垣は「顔の見えない他者」との共生の問題には、その政治的倫理的、あるいは原理的側面を含めて相当の興味をもっています。過去のすでに「いなくなった」者との共生(過去の歴史性とは何か、その痕跡たる墓や写真とは何かというのはテーマになりますね)、あるいは未来の、絶対に自分が接することにない者との共生(アクチュアルなはなしでいえば、数万年にわたって猛毒である放射線廃棄物を生産しつづける原子力発電というテクノロジーにおいて、この猛毒処理を未来世界に押しつけることにはいかなる責任があるか、どこまで責任があるか、あるいは同様に地球温暖化でも遺伝子改変でも、その影響が「今生きているひとはすでにいない未来」にあらわれる場合、そこで何ができる、あるいはいえるのか)には多大な関心があります。

また別側面でいえば檜垣は生命とテクノロジーの哲学をひとつの専門としています。この意味では、共生という言葉が、自然や動物、人間ではないものとの共生という領域を必ず含むことにも関心があります(檜垣は「食べる」という方向から、これにアプローチすることをおこなっています。我々が食べているものは、一般的にいえば「殺した生物」です。人間は「むやみにいのちをころすな」ということを基本的な掟とする生物ですが、他方で我々は日々生き物を「殺して」食べています。植物も動物もある意味でかわりません。これは何なのか、どういうことなのか、檜垣にとって大きなテーマです。授業でも何回かとりあつかっています)。また今後問題になってくるのは人工知能・ロボット・機械といったものが「社会の主役」になってくるであろうということです。それらは人間ではありません。モノでしょう。しかし一般的にそれらが知性をもち、ある程度の判断ができ(すでにそうなってきています)、人間社会の大きな部分を占めるようになったら、われわれは知性ある機械とどう「共生」しなければならないのかを考えなければなりません。いわば、かつてであれば「宇宙人がきたら」どうしよう、が現実になっています。そしてロボットはヒューマノイドもいますが、たんなるパソコン内部の住民であったり、あるいは極小の医療機器になってあなたの身体細胞のなかに埋めこまれたりするかもしれません。こうした事例について検討することも、重大な共生問題だとおもいます。

搦め手かもしれません、繰り返しますが、もちろん哲学者ですので、一般的な社会・政治哲学的的主題はいろいろ授業でもゼミでもあつかうでしょう。暴力論も資本主義論も現代哲学の大テーマで、これを無視することはありえません。しかしせっかく哲学なのですから、絶対に共生できない過去と未来の他者、現在の共生であっても人間でないものとの共生はぜひとも自分としてアプローチしたいとおもいます。そしてこれが一周めぐって、常識的な「共生社会」を考えているひとたちに何かの刺激を与えられれば、自分がここにいる意味も少しはあるのかなとおもう次第です。

具体的な授業テーマとしては先にあげた「食べる」そして檜垣の主題である「賭ける」、そもそも哲学・倫理の総主題である「生と死」、それに「未来」や「テクノロジー」のはなしを組みこんだものはただちに用意しようとおもいます。また檜垣はおそらく自分自身の「研究」としては、当然フランス現代思想と日本哲学がおもな分野でありつづけます。そういうことでお願いします。

PS 2000年に阪大に赴任した際、そのときは人間学講座の基礎人間学というところにいたかとおもいますが、学者としてあることについて自分がどう考えているかを書いた文章がありますので、違うページに付しておきます。もう16年前の若い自分の文章で、そういう若さはなくなったかなと実感しますが、精神においては変化はないつもりです。

>> 檜垣立哉先生 紹介